……そうして、遥か昔に記憶の奥底に押し込めてしまっていた感情を、伊角くんを見る度に思い出してしまうのだ。面差しが似ている。どこか神経質そうな、けれども見るものを惹きつけて止まない優美な微笑み。
神の采配に見離された棋院の子供たちを救おうと、今の役職について以来、満遍なく手を差し伸べ続けてきた。
それなのに……肝心なときに、私の心は頑なに前に進むことを拒むのだ。
棋院に来なくなってしまった伊角くんの行く末を、切々と心配するばかりで、私にはどうすることもできないのだと、歯痒い思いに悩まされた。
そんな日々を過ごす中、伊角くんが中国で修行をしているらしい――という噂を耳にしたのは、かれの姿を見なくなってひと月ほどしてからのことだった。
伊角くんからのプロ試験の申込書が事務局に届き、棋院でかれを知る者の間では、今年も挑むらしいという話が少々口にされる機会があり、そうしてだれかがどこからか、かれは今、中国の棋院にいるらしいという消息を掴んできた。
それから程なくして試験が始まり、久しぶりに棋院に顔を見せるようになった伊角くんは、もう迷いなど捨てたかのように、順当に勝ち上がっていた。
なにがあったのか、どんな風に迷いを振り払ったのか、そんなことはわからない。ただ、かれのまとう典雅な雰囲気に、力強さが加わったことだけは、直ちに見て取れた。そして、その姿に溜飲の下る思いがしている自分にも、気づいていた。
「……伊角くん?」
 対局室の外ですれ違い様、声をかけてみる。
 午前中の対局を終えたばかりなのか、眉間に皺を寄せ、厳しい面差しで床を見つめ歩いていた伊角くんが、はっとしたように顔をあげ微笑んだ。
「調子がいいようですね」
「ありがとうございます」
「去年までとは、どこか……違う」
「ええ。去年までは、どこかで自分の力を信じきれなかったんですけど……」
「中国でなにか会得できたのかな」
「そう……ですね。自分で信じることができなければ、他の人に信じてもらうこともできるんだって、気づいたというか……」
 それを聞いて、良かったと――心底安心すると同時に、慕情に満ちた美しい表情でその台詞を口にする伊角くんに、かすかに心が揺さぶられた。
 手を差し伸べてくれるだれかが、彼の地に居たのだろうか。
 欄干に顔を埋めていたかれの姿が、ふわりと風のように襲いかかった。
「伊角くん」
「はい?」
いつものように優美に微笑む伊角くんを前に、何事か言いかけて――でも、それを告げることは辛うじて思い留まる。私は口にしかけた言葉を飲み込み、まったく別の台詞を吐き出した。
「――いや。午後も頑張ってください。期待していますから」
「はい。篠田先生の期待に応えられるよう、全力を尽くします」
緩やかな動きで頭をひとつさげて、伊角くんは歩いていってしまう。
今も、そして、あの時も――私は、一体なにを伝えようとしたのだろう。
そして、かれはあの後、どこか別の場所でだれかに腕を差し伸べられ、その腕に縋り付くことができたのだろうか――。
それを知る術はない。
けれど、そのことを願わずにはいられない。

『ABYSEE』の多香子様に頂きました!篠田→伊角小説です!
多香子様とのメールでちらりとこの話題が出たときに速攻食いついて
離しませんでした!誰かほめて!

切ないようなもどかしいような篠田先生の慕情、根底を流れる楊角・・・
もう、最高ですね。 多香子様 本当にありがとうございました!
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