追憶の彼方に




それは陽炎のように淡く揺らめきながら記憶の奥底を漂う微笑み。
具直な私の心に乱反射する光を投げ掛け、こちらにおいでよと甘美に誘うその微笑みに、かつて私は幾度となく身を震わせ、そしていま再びその誘惑を前に躊躇している。
ほんの少しだけ、少しだけの勇気があったならば……そしてその誘惑の先へと数ミリでも進んでいたならば……その時、私の眼差しに写し出されるのは、どれほど魅惑的な情景に変わっていたことだろうか――。



少し前に五十歳を越えた。見合いで出会った相手と結婚して娘が二人いる。ありふれた円満な家庭生活。特に不満はない。
残念ながら、後世に残るような棋譜を産み出す才能は持ち合わせていなかったが、しかし協会の管理職は性にあっていたし、後人を育てるのは楽しい仕事だ。
人には天分というものがある。それを越えて存在できない以上、振り返ってみても、私の人生はひとつの過不足もない妥当な軌道を描いている。
そんな紋切り型で平凡な人生の軌跡だったが、時にはその轍から外れてみたいという欲望に駆られることもある。
今もそうだ。この私の密かな愉しみが、伊角くんの顔を……その涼やかな笑顔をこっそりと眺めることにあると知る者はいないだろう。
……当たり前だ。
私自身、最近になって初めて、そのことに気付いたのだから。
棋院には沢山の院生がいる。まだほんの子供に過ぎない小学生から、高校生くらいまでの少年少女たち。煌くような才能と共に瞬く間に階段を掛け上がっていく者もいれば、血の滲むような努力の果てにようやくプロの入り口に辿り着く者もいる。
そういうことは、自分が院生だった昔からなにも変わってはいない。
才能とチャンス――碁の神様は、実に気まぐれにそれらを配分する。
その匙加減ひとつで、勝者と敗者が……つまり、報いを受けられる者と受けられない者とが、決定されていくのだ。その決定を覆すことは不可能だ。それはただ、神の采配の領分で、私にはどうすることもできない。
だから、私の仕事は限られている。才能のある者には、それを開花させるよう手助けし、才能のない者には、努力を続けられるよう手を差し伸べる。
棋院に通う子供たちにほんの少しの救いの手を差し伸べること、それが我々師範の仕事だとも言えるだろう。
まあ、そんな話はどうでもいい。
いまは、伊角くんのことを話さなければならない。
控えめで物静かで、なのにどことなく印象に残る青年――伊角くんについてどんな人物かと聞かれれば、そんな風に答えるべきだろう。いつもいつも、小さい院生たちに取り囲まれその世話を焼いているイメージがある。
そのせいあってか、事務所の面々にも、師範連中にも評判は良いようだ。
しかし、かれに対する匙加減について、神は気まぐれな間違いを犯しているとしか思えなかった。
才能は申し分ない。努力を厭わないプロ向きの性格をしている。立ち話などをしているときに、その優しすぎる気質が勝負の場で障害になるのではないかと危惧してしまうこともあったが、それでも対局中の鋭いまなざしを見れば、それが杞憂に過ぎないということは直ちに理解できた。
けれども、かれはここ数年、プロへの昇格試験に失敗し続けている。
しかも今回は昇格した3人ともが、伊角くんよりも遥かに年下の才長けた少年たちばかりで。
「まだ、来年がありますよ」
 そう声をかけると、それでも無理矢理に微笑もうとするかれの痛々しい姿に、胸の辺りがきりきりと痛んだ。
それから程なくして、かれの姿を棋院で見かけることがなくなり……かれを知る者も心配そうな気配を漂わせつつ、だけどその名前を口にすることが憚られるような、そんな厭な空気が流れるようになり始めて――



――来年がある。まだ、来年があるじゃないか。
かつて口にしたその台詞を、数十年の時を経て思い出す。
そんな台詞で、別の少年を同じように慰めようとしたことがあった。











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